当然そうだと思ってたことが実はそうではなかったということありませんか?
少し前の朝日新聞に「関西の小学校には、お茶のでる蛇口があると聞いたがそれは本当か?」ということを調べた記事がありました。
でこの記事の冒頭を読んだとき「普通にあるやん。」と僕は思ったわけです。ところが記事を読み進めるとそうではないということらしいのです。記事によると大阪市、神戸市、京都市ではそんなものはなくみんな水筒を持参しているということのようです。
では全くないかというとそうではなく茶の産地で有名な京都府宇治市では市内のほとんどの小学校にこうしたものがあるということのようです。
まあここまでくれば分かると思いますが僕の出身地はこの宇治市なんです。だからお茶が出る蛇口が当たり前にあるものだと思っていたのです。
僕の通っていた小学校では1階に水とお茶を飲むスペースがありました。蛇口の数ははっきり覚えてませんがかなりあったように思います。で休み時間が終わるとみんなそこで水なりお茶なりを飲んで授業に向かうというのがある種のルーティーンでした。
まあ決してうまいというお茶ではなかったのですがそれでもみんな良く飲んでいた気がします。(備え付けのコップで回しのみに近いですから衛生面はかなり怪しかったですが(^―^)いまは多分衛生的になってると思いますけど)
こういうものは全国どこの小学校にでもあるものだと思ってたのでこの記事を読んで僕の町だけのオリジナルであることを知り何となくうれしい反面多少驚きがありました。
『常識は常識にあらず』というと随分飛躍した話になりますがこういう自分にとっては当たり前だと思ってたことが実は違うということは気づいていないだけで少なくないのかもしれません。
僕もよくありますが先入観やある種のバイアスで物事を捉えそれがあたかも常識のように自分の中で咀嚼をしてしまう。そしてそうして作り上げられたエセ常識ほど実はしつこく自分の中にこびりついてはがれない。こういう事少なくないような気がします。
[メディアリテラシー]というような言葉もいまや普通に使われるほど浸透してますがいかに自分の中で真実を見極めるかということの重要性が昨今頻繁に指摘されています。
ただ一方でそれは常識を疑うという容易ではないことを求められていることでもあります。すなわちある種の否定をしなければならない。しかし本当の真実というのは否定の積み重ねの上に成立するのかもしれません。
なにか小難しいことを書いてますが自分でもよく分かってません(^―^)
でも大事なことは自分の基準、「セルフ・スタンダード」(こんな言葉があるか知りませんが)を持つことだと思います。決して何か依存しない自分なりの価値や常識を持つこと。こういう事が大事だと個人的には思います。もちろん独り善がりなそれに価値はないですけど。
でもこの記事を見て小学校時代の事を思い出しましたけどそれって年をとった証拠かもしれません(^―^)
ちなみ明日は僕の20代最後のBirthDayです。
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